――まず最初に、どんな学生時代を送られたのか教えてください。
飯沢 僕は2期生です。学科ができて2年目だったから、カリキュラムは万全ではなかったです。プログラミング演習がやけにハードで、毎週違う言語の演習をやってしまう。2週目には「じゃ、やってみて」と次の言語にいくんだから、あれはきつかったな。
清水 そうだったね。だけど当時は他学部の演習も単位に認められてたでしょ。僕は文学部でCOBOLの単位を取りました。文系学部で取るとすごく楽だった(笑)。
――残念ながら現在はもうその履修方法は認められていません(笑)。学科ではどんなコンピュータに触れていたのですか?
清水 僕は飯沢さんの1年後輩、3期です。実は駒場時代は物理志望だったんですよ。コンピュータに触ったこともなかった。物理を専攻しようと考えていたんだけれど、最後の最後に情報科学に変更しました。なにかコンピュータには新しいことがあるような予感がしたんですね。最初に触ったコンピュータは、PDP-11互換の三井造船のミニコンでした。16ビットUNIXが載っていました。あの頃のUNIXはベル研究所が配布していてソースがほとんど読めて……シェルが550行くらいだったかな。それでUNIXのカーネルやコンパイラを知りました。UNIXが僕らの教科書だったんですね。なにせC言語の教科書だって翻訳はまだ1冊しかなかったんですから。
鎌田 僕は6期ですが、僕も三井造船のミニコンは触りました。当時はまだFORTRAN全盛で、大型計算機センターもパンチカードで入力していましたよね。カードが高いからなるべく短くプログラムを書くように工夫したりして……。
清水 ワークステーションが出てきたのは僕が修士の頃でした。VAX 11/780、VAX 11/730あたりが各研究室に入るようになりました。
鎌田 ええ。みんなが使いたいから使わせてもらうのが大変(笑)。あっちの780、こっちの730と間借りしながらVAXでUNIXのプログラムを書いていました。
――飯沢さんが中央電子のワークステーションCEC8000にUNIXを移植したのはその頃ですよね? 1981年。世界に先駆けたマイクロプロセッサへの移植でした。
飯沢 UNIXの移植を世界でみんな競っていた時代です。CEC8000はメモリが64KBしかなくて、コードを1バイトたりともムダにしないようにと必死にやりました。それで、短く、早くコードを書くテクニックを覚えていったんです。