で、国産メーカーも、さっきたとえばそこにある日立の超大型コンピュータ、 あれも、日立っていいましたけれども、ようはアーキテクチャーは IBMとまったく同じ。 僕がコンピュータ業界の世界に入って何年間か経って、そのころ 日本の大手コンピュータメーカー っていうのは6社あって、日立・富士通・日本電気・東芝・三菱・沖 っていうのがありましたけど、 通産省の行政指導で、たとえば日立は富士通と組んで、ひとつの会社を作って、 これはもう日立・富士通で完全にIBMコンパチブルを作ろう(ということになった)。

日本電気は東芝と組んでまた別の会社を作って、沖電気は三菱 と組んで別の会社を作って、 そういう路線がずーっと日本は続いてきたんですね。で、それはもう完全に、 時代的にいうと、そういう時代っていうのは、1960年代から、今言った 技術提供っていうのはだいたい1970年ごろです。1970年ぐらいは、 まだそのころ今のダウンサイジングとかそんな動き何もありませんから、 もう日本のメーカーは汎用大型機(が主流だった)。

もうコンピュータがだんだん数値解析だけじゃなくって、 オンラインシステムとかもろもろに使われ始めた。で、ところが、 1970年以降からそういう路線で、 日本のコンピュータメーカーはグループを組んで、それぞれアメリカ の大手に手本を求めて、 そこのアーキテクチャを導入し、そこのオペレーティングシステム を盗んできた・・・、 場合によっては。

そういう路線をずーっと歩んできたんです。今、盗んでくるなんて ひどい事言いましたけど、本当に盗んできた。それが後で非常に 大きな事件を起こした。 その事件知ってる? 知らないよね。大変な事件が、日本の コンピュータ業界が全部つぶれるか っていうぐらい(大きな)事件が今からかなり前に、起きました。

「トロン」なんていうコンピュータ聞いたことがありますか? 「トロン」も聞いたことない? ああそう。あるよね?「トロン」はね? で、そういう狭間をぬって出てきたのが「トロン」なんていうOSなんですね。

それは結局日本のOSの、話がたくさんで飛び飛びになっているけれども、であの、 東大の大型計算機センターは、ようは国産メーカーが海外のメーカーに手本を 求めてきたのは、1970年以降昭和で言うと45年以降で、 大型計算機センターができたのは、 昭和40年なんですね。で、昭和40年ていうとちょうどこのころ、 39年、大型計算機センター できたのは39年だったかな? ちょうどIBMがSystem360っていうのを、 OS360 っていうのは OSですけれども、対応するのはSystem360。これがコンピュータの名称なんですね。 この中にモデルがいろいろありまして、IBMがSystem360を発表した。

[OSの歴史] で、いよいよ コンピュータが、本格的なコンピュータ(世代)が始まった。 第2世代から結構本格的 でしたけれども、第3世代になって変わったのは、ハード的に 言うとなにかというと、 トランジスタから集積度の高いICに変わったっていうこともありますけど、 2次記憶が非常に大きく変わったんですね。2次記憶が第2世代までは 磁気テープしかなかった。

第3世代になって磁気ディスクがではじめてでてきた。やっぱりテープと ディスクは非常に 違うわけですね。テープっていうとくるくる回るだけで、 シークエンシャルなアクセスしか できないわけでしょう。ところが磁気ディスクっていうのは非常にミクロに言うと シークエンシャルかもしれないけれど、多少僕らの使い勝手から見ると、 ダイレクトアクセス ができる。

だから、2次記憶が磁気テープから磁気ディスクになったことによって、 OSがもう基本的に、OSのストラクチャーが変わったって言うか、 直接アクセスできる2次記憶に なって、それまでできなかったOSの技術がいろいろ 実現できるようになった。それが第3世代 なんですね。あの、何で360なんていう名前がついてるかって いうと、360っていうのは 全方向をカバーする(という意味)。第2世代っていうのは、 科学技術計算用・事務処理用で コンピュータのアーキテクチャが違う、ぜんぜん違う アーキテクチャのコンピュータをIBMなんかが サポートしてた。

で、それがもう科学技術計算も事務処理も だんだんオンラインなんていうことに なると、業務形態としてはいっしょにしなくちゃ いけないわけでしょ? で、ひとつの アーキテクチャで提供しましょう、っていうのが360。 それはいまだに残ってますけど、 科学技術計算はフォートランでやりましょう。 事務処理はコボルでやりましょう。 System360はフォートランとコボルを合体して、 それはそのあとあんまり成功しなかったけれども、 言語としてはPL/I、これはフォートランとかコボルの 両方の機能を併せ持った言語ですけれども、 こういうものをIBMはやりました。

で、それがちょうど、昭和40年。第3世代になって現代の コンピュータがようやく本格的に始まった。というか、 いまダウンサイジングという流れは また1980年代のある時期から出てきましたけれど、 汎用大型コンピュータに関しては1960年から 現在まで基本的には変わっていない。極端な言い方をすると何も変わっていない。

変わったのは非常にメモリが大容量になった。2次記憶も非常に大容量になった。 それからスピードが非常に高速になった。それだけが変わったんですね。 ユーザーインターフェイスは当然変わったけど、OSのストラクチャー・構成などは何も 変わっていない。ようは、OS360のストラクチャーは今も 大型(計算機)センターが引き継いで います。

というか、大型センターが昭和40年にできたときには、 その話をすると非常に長くなりますけれども、日本で最初の 大型計算機センターが東京大学に できた。で、当時はまだコンピュータなんていうのは オンラインとか(ではなくて)、銀行だって オンラインではぜんぜんなくて、みんな手書きで 記入されてました。コンピュータっていうと 計算する道具だったんですね。そのころはまだ。

で、大学が大型計算機センターを作るなんて いうのは、もうコンピュータ業界にとっては大変な ビッグチャンスで、国産では当時やっぱり 日立製作所が一番コンピュータでは先を走ってた。 でも国際的に見るとIBM、その他いくつもの 強いメーカーが(あった)。

昭和40年に大型計算機センターに 何を導入するか、導入委員会が 大変な委員会で、工学系の、さっき言ったたとえば 森口先生とかそう言う先生は「外国機を どうしても入れろ」っていう主張が非常に強かった。 ところが、理学系の先生、高橋さんなんかも そうなんだけど、その他の若干の先生は「やっぱりここは、 国産技術を育てなければならない」 (と言った)。

大学の計算機センターって言うのは、 やっぱり一番ユーザーとして高いレベルの コンピュータをつかってた。(だから、)国産技術を 育てるために国産機を導入しようという ことになった。で、最終的に各社ともいろんな プロポーザルを持ってきた。IBMは、 まだペーパーマシンだった、まだ動いていなかった System360のあるモデルを持ってきた。 たしか森口先生はIBMじゃなくって別のアメリカのCDCか どっかを推してらしたと思う。

で、日立製作所は何をもっていたかって言うと、 日立製作所は純国産の技術で今から作ろうとする HITAC5020っていうコンピュータを持ってきた。 これはまだペーパーマシンで、「こういう コンピュータを作りますよ。」っていうプロポーザルを もってきた。

で、当時日立はどうなっていたかっていうと、 当時はアメリカにはRCDなんて いう会社があって、総合電機メーカーで、 そこがコンピュータを作っている。非常にIBMと近い アーキテクチャのコンピュータを作っていた。 で、日立はRCDと技術提供をしていて、 RCDの全面的なサポートでコンピュータとソフトウェアの 開発をしていた。

日立製作所、将来 ここから就職される方もあるいはいらっしゃるかもしれませんが、 まだコンピュータって言うのは 工場のひとつの課で、ソフトウェアもひとつの課で、 RCDが技術提供しているコンピュータを作って いたんですけれども、やっぱりコンピュータを日本で 作りたいということで、5020っていうのは 純国産の日本のコンピュータで、今でも「その当時はよかった」 って言う人がたくさん いらっしゃいますけれども。

これはどういう経緯の コンピュータだったかっていうと、 さっき理学部には、高橋さん・後藤さんがパラメトロン 計算機を作られた、工学部にも そういう動きがちょっとあったんですね。で、工学部では、 理学部の数学家を出られた 村田さん・中沢さん、当時大学院の学生だったころに、 東大で真空管を使って、理学部は パラメトロンを使って、工学部の応用物理の、 今でいうと物理工学専攻、TACっていう コンピュータを作った。これは動いた。動いて ユーザーも僕らの世代にもいるのかな? 僕らより ちょっと上の世代になりますね。TACっていうコンピュータ。

で、東大でTACを作って、ようやく東大でコンピュータを工学部でも作って、 村田・中沢さんはもっとコマーシャルベースな大きい コンピュータをぜひつくりたい、と。 「自分たちはこういうコンピュータを作りたい」っていうので、 この人たちを購入した、買ったのが日立製作所なんですね。 日立製作所は中央研究所が この人たちを購入して、「あなた方のデザインによる コンピュータを作りなさい。」って いうことで、 その後日立製作所はずっと、工場を中心にした技術導入路線と、 研究所を中心にした国産技術路線 (をとった)。

で、これを発展させて作ったのがHITAC5020っていうコンピュータです。 東大の大型計算機センターの第1期には日立製作所はRCDとの技術提供のコンピュータを 持ってきたんじゃなくて、まだこれから自分たちが作ろうと する新しいアーキテクチャ、 純国産技術のコンピュータを東大に持ってきた。それで、東大の機種選定委員会は 「あの人は何派だ」とか「この人は何派だ」とか分かれて、東京大学の大型センターの 歴史を書いてある本がありますけれど、ようは一票差で、 最後は投票だったようですが、 国産コンピュータを国産技術の育成のために導入するということが決まった。

このころはちょうど第3世代の初めですね。このころは 日本にも「新しいコンピュータを作ろう」 っていう動きがあったんですね。それは日立だけではなく富士通なんかもそうです。

日本経済新聞を読んでらっしゃる人、ここにいるかどうかわからないけれど、 「私の履歴書」っていうのが一番後ろにあって、つい最近まで富士通の会長の方が、 じぶんの富士通の経歴を書いていらっしゃるけれども、富士通ではこの村田さんよりも さらに高名な池田俊夫さん、富士通のコンピュータを支えた、 富士通の国産路線を支えた んですけれども、あまりにも無理がたたって非常に若くてパタッとどっかで脳溢血か なにかで倒れられて、それっきりになってしまった方だけど、ひじょうに。。。

この第3世代のころは日本でもまだ自分たちで新しい アーキテクチャのコンピュータを作ろう、 っていう動きが満ちていたんですね。で、それがさっき いった昭和40年ごろまではそうだったん だけれども、1970年に官僚主導国家の日本は、 日立は富士通といっしょになってIBM路線でいけ、 日本電気は東芝といっしょになって何路線でいけ、沖と三菱はどこそこ路線でいけ。 そういう路線変更を行った。

でもそうじゃないと 結局は生き残れなかったのかもしれない。 国産技術だけでは結局IBMに全部してやられていたのかもしれないけれども。 それで1970年ぐらいになって、それまでは日立は 国産路線と輸入路線と非常に競い合って たのが、国産機は一切やめた。っていうことで 国産路線でやってた研究開発者はばらばらに されちゃった。それは日立だけでなく他のメーカーでも 同じようなことがあったんだと思う。

で、僕自身のこといって申し訳ないんだけど、 僕自身はこの(国産路線の)グループに 入れられたんですね。大学の修士をでてこのグループに入れられて、 このグループで しばらくOSの開発をずっとやったり、タイムシェアリングシステム用のOSの開発を まとめさせられたり、 ずっとしてました。でも、今言ったようなこと(路線変更)で、入社したのが昭和40年 でしたけど、昭和45年に「もう国産路線はやめるんだ」。

それから後は非常に僕らのグループは みんなつらい目を見ましたよね、技術者としては。ハードウェア屋さんっていうのは 割に国産技術やってても、その後向こう(アメリカ)の技術に入りやすいん ですけれど、中沢さんは物理工学科出身の方で、非常に能力の高い方で、日立製作所の 恐らく社長になるだろうって言われてたんですけど、 さっきのソフトウェアの窃盗事件が おきまして、それは1980年、ちょうど皆さんが生まれたころかしら? もうちょっと早く生まれてるか。

(1980年に)に、僕らは入社して何年間かは国産路線をしてましたけど、 その後はIBM路線の仕事を いろいろやらされて、「おもしろくねーや」と思ってた。 ソフトウェアっていうのはOSやってる 人間は、自分たちで自分たちのアーキテクチャのOSを一度やっちゃった人間は、 IBMのOSもってきて、そのOSのコードを見てごちゃごちゃほじくってて、 なんてやってても ちっとも面白くないんですね。

で、僕らは、 そこからいやになって飛び出した。中沢さんは ハード屋さんで、ソフト屋はそういうの苦手でしたけど、 ハード屋さんは5020やってても、 ばさっと技術導入路線に行って、そこのトップまで なった人は何人かいます。中沢さんは 導入路線の頂上まで行って、ところが頂上まで行った時に 非常にきつい事件が起きたんですよね。

それはなにかっていうと、1980年ごろですかね。81年かな。 1981年ごろに、僕らでいうと、俗称 「IBM事件」。そのころはまだIBMが全盛期を極めてるところだった、 コンピュータの世界は 本当にIBMが動かしていた。大型計算機センターも最初は HITAC5020なんていう純国産路線の コンピュータが入ったけど、そのあとリプレイスがあったときには、 日立(のコンピュータ) だけれどもIBMコンパチブルマシン、IBMのOSそのまま、 IBMのアーキテクチャそのまま。

日本人はそういうのに長けているので、IBMが新しいアーキテクチャ、 新しいOSを発見すると 最初はそれをフォローするのに何年間かかかっても、 どんどん短い期間で(フォロー できるようになって)、IBMが新しいバージョンを発表したら、 すっとそれをフォローできる。

まあ、いろんな技術もできてくるし、いろんな情報を収集す方法も確立してくる。 で、1981年ごろに、いろんなメーカーがIBMの技術をフォローした。 この後をざっとした動きでいうと、OS360が1962年に発表されて、 アーキテクチャ的にいうと 現在までほとんど変わっていない。1970年ちょっと過ぎに 仮想記憶が導入された。一番大きく 変わったのは1981年ごろでしょうか? これはアドレス空間が 24ビットしかないんですね。 ていうと、16メガ。当時の主記憶から言うとそれで(16メガで) もうほんとに十分だったんだけど、 24ビットじゃアドレス空間が足りなくなった。アドレス空間を 大きくしようなんていうような アーキテクチャ上の(変更)、それも従来とのコンパチビリティーを 保ちながらだから、 そう簡単なことではないけれども、そういうような新しい バージョン・シリーズのOSが 1981年ごろでしょうか? に(作られました)。

それ(IBMの新しいOS)の資料をどうしてもIBM路線の企業が導入したい、 いれたい。で、アメリカの ある小さな会社を通して、その資料を集めた、金を払って。あんまり具体的にいうと 生々しいけれども、僕らが昔いっしょに仕事をした人間が そういう資料を手に入れるために、 いっぱいお金を持って、購入に出かけるわけですよね。 裏側でね。

ところが、それが、 その会社がひどい会社で、FBIと組んでましてね、FBIのおとり操作(だった)。 それで、全部そこでエンジニアがしょっぴかれて、 それから大変な事件にそれが発展して、 まず、刑事的な事件、それから、民事的な事件、 日本は膨大な賠償金を払わなければならなかった。

そのとき中沢さんは日立製作所のコンピュータのトップにいた。 だから、元来は東大の非常に 優秀なエンジニアで、国産機の本格的な大型コンピュータを 最初に開発したスーパースターだった んだけれども、ほんとに運悪く日本の日立のトップにいて、 それでその事件の責任を取って、 完全に失脚をさせられてしまったんですよね。そんな事件がありました。

その「IBM事件」に引っかかったのは日立だけじゃなくて、 富士通もそう、三菱もそう、 日本の大手メーカー全部。そういう僕ら日本人の感覚とは 違う世界ですよね、アメリカは。 そういう方たちも当分の間アメリカに出張も当然ビザの関係で アメリカにも入れない。 その後は刑事的な事件が解決して、民事(裁判)が終わって 初めて自由に(アメリカに) 行けるようになった。

日本のコンピュータの世界って言うのは、 そういう非常につらい 1960年代くらいから、IBMコンパチ路線、汎用機路線っていうのを ずーっと走ってきたんです。

日本はなんていってもいまだにそう。最近でこそようやく多少 「ベンチャーだ」っていって 騒いでるけど、みなさん方だってほとんどは将来就職されるときは ベンチャーじゃなくって 大手メーカーにいらっしゃるわけですよね。ちょっと前は これくらい(の人数の学生が)いると かなりの人が銀行とか商社に行くけど、このごろは銀行や商社よりは大手メーカーに就職を される。

今の大手メーカーはみんな汎用大型路線、IBMを完全に手本にして、ずっと走って きたんだけど、1980年代の半ばくらいから、ダウンサイジングがはやって IBMもフォローしきれなくて一時期急速に落ち込んだけれども、 日本はどのメーカーもIBMフォローで大型機路線で、 技術者もそういう技術者しか育っていないし、会社の管理体制がそうなっているので、 ずーっと汎用路線でその後も走りつづけて、ベクトルが切れなくて、 今もダウンサイジング の世界に乗り遅れてるでしょ。

さっき言ったトロンなんていうのは、IBM事件が起きて、 国産メーカーとしても何かOSを持っていないと大変なことになる(と思って)、それで 各社ともトロンなんていう東大で坂村さんていう人が新しいアーキテクチャでOS を提案をしてるから、何とか保険のつもりでトロンていうのに興味を持って、 将来、UNIX だっていつ AT&T が全部押さえちゃうかもしれないから、 国産OSがどうしても 必要じゃないか、っていうような時代が1980年代です。 時代とともに、危機感は薄れて「国産OSなんていらないや。」っていってトロンも結局 日本の主要なOSにはなれませんでしたけれど、そんな時代がずっとありました。

話が収束しないほうに行っちゃってるけど・・・。 今日OSの話をしようと思ってるんだけど、できていないけど・・・。

でもやっぱり今一言だけ感想をいうと、新しい分野、それから新しい技術が出たときに その分野にいる人は非常にいいですね。それは、僕なんか能力が、 ようやく東大に合格できた程度の人間だと思ってますが、 最初にコンピュータが立ち上がる時期に運良く (社会に出ることができた)。

でも、僕でも就職しようとするときに、 コンピュータの業界に入ろうとしたら、先生方が 「もうコンピュータなんて今からやってもしょうがねーよ」って何人も言ってたけど。

みなさん方に(とって)非常に重要なのは、研究テーマを選ぶにしても、 どっか就職されるにしても、 なかなかたやすいことではないけれども、将来多少リスクがあって変動しても、 大きく広がっていくようなところに、最初に入ると非常に大きな得をするけど、 情報の分野なんていうのは、定常状態に入った分野に入っちゃうと、 能力がいくらあっても 大きく伸びるって言うのはなかなか大変かもしれませんね。ただ、これから どういうふうに将来性のある分野を見極めるかっていうのも非常に 難しいことかもしれません。 僕らの場合には、偶然、伸びることができる分野に入ることができたんですが・・・。

何を話してるか、だんだん、忘れてしまいましたけど・・・。

この3つの話をちゃんとしないといけないわけです。 もう時間が来てしまっているので、話せませんが・・・。 今日はほんとに雑談ばっかりしてしまいましたが、この次簡単に(続きをします)。 一言だけいっておくと、OS360っていうのはほんとのコマーシャルベースの IBMのOSで、MULTICS っていうのは今現在のOSの技術を確立したOSです。 これはMIT が開発したOSです。 OS360っていうのは、バッチOS・・・、って言っても皆さんもう わからないかもしれませんが、 計算機センターがあって、カードをパンチしたものを持っていって、実行してもらう。 スループットをできるだけあげようっていう方向で、コンピュータのパフォーマンスを あげていった。

でもマンマシンのインターフェイスが非常によくない。MULTICS って いうのはそれに対して、 タイムシェアリングシステム、TSS、ですね。一台のコンピュータを 同時に何十人も何百人もで 使える。いまでも一番はやってる UNIX っていうのは、MULTICS っていうのに 名前が似てるでしょ? MULTICS からでてきたOSなんです。MULTICS の 開発を MIT と GE と それから Bell研 がやったんですね。MULTICS は一時期「失敗だ」って 言われたんだけど、 Bell研の人たちがBell研にもどって、MULTICS の思想を減らして、 小さくてコンパクトな OS を作ってみたい、っていってはじめたのが UNIX。だから、これも研究ベースのOS。

この次もうちょっとこの話をしておしまい。 できたら来週教科書が入ってるといいんだけど、雑談ばかりしててもしょうがない。

おしまい


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Last updated on 13 May, 1999