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現役学生OBインタビュー「先輩たちの仕事の原点」各界で活躍する先輩たちが教えてくれる“仕事の本質”

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世界に通用するソフト製品を開発したい -情報科学科発ITベンチャーの創業

ラティス・テクノロジー株式会社|鳥谷浩志さん (情報科学科5期)
インタビュー年月日
平成21年 3月 16日
鳥谷浩志 
ラティス・テクノロジー株式会社代表取締役社長・理学博士。
東京大学理学部情報科学科卒業後、株式会社リコーソフトウェア研究所においてソリッドモデリングカーネルDESIGNBASEの研究・開発を指揮。1998年よりラティス・テクノロジー株式会社勤務。技術統括部長として、インターネット3Dを具現化するラティスカーネルの開発を指揮。1999年11月より同社、代表取締役社長。
内閣府研究開発型ベンチャープロジェクトチーム委員、経済産業省産業構造審議会新成長政策部会、東京都中小企業振興対策審議会委員等を歴任。
アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン2002でスタートアップ部門賞獲得。
泊久信(学部3年)、 中川雄一朗(学部3年)
起業をされたという、情報科学科としては珍しい経歴に惹かれて、是非お話を伺いたいと思い九段下にあるラティス・テクノロジーを訪問しました。
起業について



起業をされたということですが、起業される前は別な会社で働いていたのですか?
そうです。リコーという会社にいました。
給料は最初どうなのかもわからないと思うが、それに対する恐怖心はやはりあったか?
もちろん。既にそのときは結婚していたし、住宅ローンもあった。会社では課長をやっていました。辞める日に、午前中に銀行に行って、住宅ローンの借り替えをしました。 リコーの課長は世間では偉いのですね。5000万円くらい貸してくれた。ローン契約が終わった後、リコーの本社に行って退職届けを出した。
なるほど、肩書きを利用してローンで借りた、と。
返せるか確信はなかったけど、なんとかするさという気持ちです。リコーの本社は青山にあって、近所に青山墓地と言うのがある。 8月の暑いときに青山墓地を歩いて。空は真っ青。セミの声が聞こえる。変な話だけど、(敗戦の時期だったので)「こうやって戦争は終わったんだな」と思った。「日本は負けたんだ、これから新しい日本を作らなくちゃ」と。
そこまで強い決意をもって起業なさったきっかけと言うのは何だったのでしょう。
一番大きいのは、IT/ソフトウェアの分野で日本はボロ負けだということ。今もそうだけど、Windows(TM)にしろ Google(TM)にしろ、みんなボロ負けだ。なんとか一矢報いたい。リコーでやっていたソフトウェアもあったのだけど、このソフトウェアは日本は大体制覇したものの、海外で苦戦をして最終的には撤退してしまった。負けてしまった。なんとか日本から世界に通用するソフトを作りたい。これが1つめ。ただそこで、どうやってやるのかと言う問題がある。そこで2番目。リコーでやっていたのは3次元CADで、これにはデータが軽いという特長があった。ただ、CADはもの作りのためのソフトだから、精度が必要。そのためにある程度の精度で表現しなくてはならないから、データは軽いんだけどオーダーで重くなってしまう。本当はもっと別の特長があったのに。そんなところに1995年ごろ、インターネットの時代が始まった。ネットの時代がくるな、Internet Explorerの前の、Netscapeの前の、Mosaicというのがあって、テキストや画像がネットを通して自由に見える。次に絶対3Dが来るよね、そのときにこのデータが軽いという特長が生かせるのではないか。きっと何か儲かる方法がるじゃないかな、というのがあった。 3つ目に、Companyというのは、「仲間」という意味でしょ?仲間がいないといけない。いっしょに作る人が必要で、やはりリコーに何人かいて、優秀だった。日本を代表するような3Dビュアーだったら、こいつらがいれば、強力なアイディアもあったので、世界に打って出られるかもしれない。
軽量化というのはVRMLとかそういった形式に比べて軽いということですか?
VRMLに比べても軽いし、CADデータに比べても軽い。 データ量を二桁軽量化し、格段に高速に表示する。二桁軽量化することで、世の中に革新をもたらすことができる。
元々起業されたときには、リコーの経験が役に立ったのですか?
そう。リコーのときのビジネスで, CAD用の部品ソフトウェアを作って、それを色々なところで売っていた。リコーに入ったときは研究者として入って、製品を作るということでソフト開発を経験して、マネージャーとしての仕事もして、製品ができあがったから売ってこいということで営業的なことをして、最後、事業の企画までやれ、ということで色々なことをやっていたのだけれど、このときに100社近いユーザーがいた。そこで「新しい会社を作りました」というと皆応援してくれる。リコーと取り引きしていたのではないのだ。うちのお客さんになってくれたり、応援してくれる。
社員を集めるということに関しても、ネットワークと3Dで「世界に通用することはうちしかやっていない」という風に集めた。
インターネットはそのときにも普及していたのですか?
そうですね。1999年にはもうそんな感じで集めていた。そのときの人材はみんなネットで募集したから。 人材広告だすお金もなかったので。
やはり募集の時点でネットを見るということで新しいことに敏感な人を集めていたんですね。
新しい技術を作ったときに大事なのは、マーケットに対してそれをどうPRするかということ。情報科学科の賢い人が何か新しいものを作っても、ほとんどの人にはその意味がわからない。99.9%の人には理解できないものをきちんとマーケットに対して伝えていかなくてはいけない。私がやったのは、日経BPとか、世間を啓蒙する雑誌に新しい技術を連載させてもらった。半年くらい連載枠をとって、「こんな風に時代は変わっていくぞ、そこにラティスは新しい3D技術を提供する。一緒に新たな時代を築こう。」というような連載をした。一方で以前のお客さんはどんどん採用してきてくれて、「こっちもラティスの技術を採用、あっちもラティスの技術を採用」となって、この業界ではそこそこ有名にもなった。
いろいろな会社を回って作った人脈が役に立った、と。
そうですね、ビジネス上はね。
他でも3Dをずっとやっていたんですか?
はい、リコーの研究所がちょうど私が入社したときにできたばかりだった。研究所に行ったんだけど、一年上の先輩が何人かいて、それで7人くらいだった。なんで、何でもやらなくてはいけない。つまり、何かやろうと思ったらコンピュータから買ってこないといけないという意味。ネットワークを整備して、プリンタ買ってきてくれ、と。そうこうしているうちに「人が足りないから、学生集めてくれ」と言われた。こういった感じで0から始めた。でもそれは, 自分がやりたいことは何でもできるということでもあり、楽しかった。失敗しても誰も怒らない、上にだれもいないから。しかし、自己責任。失敗は自分で処理しないといけない。 26くらいのときにはもう室長代理で、下に12人くらい居た。
リコーの中でCADから発展させてデータ形式を売るのではなく、そのために起業したのはなぜですか?
初めは「リコーでやりましょう」と提案した。Corporate Identity(CI)って分かるかな?会社の目指すコンセプトのことなんですが、当時のリコーは「Image Communication」イメージを売る会社です、と。これを「古い」といって、「これからはImage Communicationではなくて3D Communicationだ」という具合に提案して回りました。ようやく「検討しろ」となったが、リコーの当時の売り上げはおよそ1兆円。1兆円企業において新規ビジネスをやるからには100億のビジネスプランを描けと言われた。だけど0から100億の絵を描くのは難しい。なんでこんなに売れるんだろう、だれがこんなもの使うんだろう、どこで使うんだ、と。最後にはかけなくなってしまった。それで100億は無理だなと。じゃあリコーはやりません、という話になって。今でも、日本のパッケージソフトウェアのメーカーで100億売ってるってところはあまり聞かないでしょう?
すでに決まった枠の中に自分から押し込んでいかないといけないから、0から始めた、と。
そう。でも最初は大変だったね。
僕は、やはり人を集めるのが大変なのではないかなと思いますが。
まあ人も大変だけど、人は集める気になれば集まるからね。何が大変かといえば、お金だね。10人集めて、東京でオフィス開くと、毎月一人大体100万以上はかかる。そしてソフトウェアは製品ができるまでに時間がかかる。だから、売るものがない。どうする?
最初はどこか投資してくれる銀行を探すしかないですよね。
銀行が融資するにしても銀行は技術が分からない。銀行にいくら説明しても意味が通じない。なかなかお金を出してくれない。銀行がお金を出してくれるのは、「ここはすばらしい技術があります。それに対して大手企業の採用が決まりました。来年までに、1億払いますと言っている。今年だけ足りないんです。」といったときに「さあ貸してやろう」となるんだけど、「すばらしい技術があります。もしかしたら誰か使ってくれるかもしれません」これでは全然貸してくれない。
そうするとベンチャーキャピタル的なところにいくしかないんでしょうか?
そう、VCにいくしかないんだけど、VCにいくにしてもお話だけじゃだめなわけで。「こういうビジネスが絶対できる」さっきいったビジネスプランだ。こういった技術があって、こういったものを求めている人が日本にこれだけいて、それに対して一社1000万くらい絶対払うはずで、それが何百社あるから絶対これだけ売れるんだ、という絵を描いて、本当にできるということを論理的に説明しないといけない。そして、その通りの結果を出さないといけない。
実際には、会社設立から売り物ができるまでにはどれくらいかかったのですか?
4年くらい。その間は累積損失が毎年赤字で、今年は5000万赤字、次は1億赤字、累積損失が三億何千万とたまってくる。一方、だんだんものが見えてくるとVCや銀行の中にもお金を出してくれるところも出てくる。でも、銀行から借りるときに、無制限債務保証書というのに社長が印を捺さなければいけない。「会社が返せなくなったら、一生かかっても社長が返せ」みたいなことが書いてある。 これに印鑑を押したときは、もう引けないなと思いましたね。
技術の進歩とニーズへの対応

3次元関係のプログラミングはリコーに入ってからですか?それとも学生の頃からこういったものを書いていたのでしょうか?
学生の頃から多少はやっていた。4年から。
そのときはどのようなことをやっていたのですか?
当時はまだUNIX全盛期で、UNIXワークステーションがあって、その上でCでプログラムを書いていて、今はWindowsのノートパソコンでもグラフィックスが出るけど、当時は別の画面があって、線画をやっている時期ぐらい。まあ面画もあったけど、箱が数十個表示するのに、ずっと待っているような状態。学部のときは、Oct-treeという構造で3D形状を表現することで、3Dに必要な計算処理を格段に減らすというようなことをやっていました。
当時の学校の設備はどんな感じだったんですか?
当時も大型計算機センターがあって、そこにHITACという日立の大型コンピュータがあって、それはカードリーダーがついていた。カードにプログラムを打って、カードリーダーに1000枚くらい読ませるとSyntax Errorとか出てきて、それをまた直してカードを打ち直して、みたいな感じでした。 4年になって研究室に入ったら、やっとワークステーションってのがあって、今の1/1000くらいの性能のマシンが、1000万とか2000万とかだった。それから4,5年経ってから3次元ワークステーションというのが出てきたんだけど、それの最初のやつがやはり1台5000万とかした。まあそのころがITの全盛期だったんだ。そこから90年代くらいまでがITの全盛期で、そのころはみんな儲かっていた。
そのころは利益率は高かったんですか?
うん、3000万のものは3台売ったら1億になるんだからね。今1億売ろうと思ったら大変だよ。
キーボードとか昔のものの方が良いですものね。
キーボードも高価だっただと思うよ,全部で3000万だもの。確か、リコーに入って最初にワークステーションを買って、メモリを増設したとき、2メガ,ギガじゃなくてね、これが500万だったんだよ。本当に桁違いの進歩だよね。
こういった進歩を見てなにか思われるところはありますか?
データが軽いからネットワークを通してデータを転送する、ということで会社を始めた。10年前に。10年前はまだブロードバンドがなかったので、電話線等を利用していてすごく遅かった。その頃3次元データが転送できたから、3次元でぐるぐる回ってすごいという感じだった。デモすると「すごいじゃんこれ」と。でもやがてブロードバンドが普及してくると「これいらないんじゃないの」といわれるようになる。ところが、今度はCADのデータが非常に大きくなってしまった。今まではコンピュータの性能が悪かったので、例えばデータ中に穴のデータは一つだけにしておいて、後はこれに準ずる、という書き方をしておいたり、あるいは全部省略、ネジは入力しない、とやっていたのに、それらを全部入れるようになった。結果としてデータが大きくなって、今車は一台のCADデータは10GBytesくらいにもなる。部品とかすべてあわせて。
XVLで10GBytesですか?
CADで10GBytes。10GBytesのデータがそのパソコンで見られるでしょうか?そのパソコンメモリせいぜい2GBytesくらいでしょう?
そうです。
見られないわけ。次の問題は、ネットではなくて、メモリ上で、メモリを食わないデータが欲しいということになって、2GBytesもメモリがあれば10GBytesのデータが見られる、という技術を作った。データを軽く済ませるだけでなくてメモリも食わない。それから、64ビットマシン。64ビットマシンは使ったことある?
自宅で。
金持ちだね。メモリはどのくらい?
3GBytesくらい。
企業だとお金があるから、8GBytesとか積むのですが、そうすると大容量のデータも見られます。そうするとまた、「要らないじゃないか」といわれる。「見られるじゃないか」と。だけど、64ビットマシンは速いといっても、グラフィックス性能などはそこまで変わらない。CPUも若干早いしメモリがあるから動くけど、それでも格段に早いわけではない。せいぜい2倍とかそういうレベルだから。結局自動車一台動かないではないかと。そこでうちが次にやったことは、高速表示。巨大なデータをネットで送って、巨大なデータをぱっとメモリに展開して、ガンガン回す。ということでなにを言っているかというと、情報のインフラはいろいろあると思うけれど、メモリかもしれないしCPUかもしれない。ネットワークかもしれない。どんどん進歩していくにしても、それに対応してニーズが変わっていって、それぞれに対処の方法があるのだなと。そして作り続けていく。理学部情報科学科の賢い人たちはそういう技術の変化を創る側にいくか、その先を見越して、新しい対応を考えるかしないといけない。
大企業との関係

株主には大企業が多いですね。
筆頭がトヨタ。そして日立ソフト。ベンチャーを経営する時には会社にブランドを作っていかなければならないんだけど、「ラティスです。XVLです。」といっても、最初は「何だそれは?聞いたことがない」といわれてしまう。そこで「トヨタ自動車はご存知ですよね」と。「トヨタが筆頭株主の会社です。XVLはトヨタで広く使われている技術です」というと全く迫力が違う。海外の顧客と取引するときもこれは有効。最初に増資したときの株主がトヨタ。それがあるまでは銀行もなかなか貸してくれなくて大変だったが、トヨタの出資がありましたとした瞬間に「是非借りてくれ」となった。でも、そのときは社員が10人で、銀行に2億5000万あるという状態でお金はいらないという状態だったんだけど。

トヨタには、看板方式という文化がある。マーケットで「車が10台売れそうだ」というと、「ではボディは10セットいるよね」「部品メーカーにそのためのパーツを30個発注しよう」そうすると部品メーカーには「部品今日中に30個もってこい」と看板が立つ、そういうイメージ。そうすると部品メーカーはその日のうちに持っていかなくてはならない。在庫がなくて一番儲かる方式です。同じような方式でソフトウェアメーカーへの対応も厳しい。バグで仕事が止まれば、「今日中になんとかしろ」となる。豊田に支店を作って、「今すぐいきますから」とならないといけないわけです。
確かにそれでトヨタの下請けは看板方式のために大変だと聞きます。
厳しいかわりトヨタはきちんと面倒を見てくれる。去年は100万でできたものには、今年は改善がないのか、80万で作れ、となる。厳しい。しかし、そのときにいろいろなアドバイスもくれる。また、もし、80万でできたらと他よりも絶対に強くなる。

後もう一つ。トヨタにはなぜ、なぜ、なぜと5回聞く、という文化がある。これは原因でなく真因を探せということ。例えば、「なんで情報科学科に入ったんですか?」「なんでコンピュータが好きなのか?」「コンピュータでなにがやりたいのか?」「なぜそれがやりたいんだ?」どんどん聞いていく。「思いつきで2個や3個は答えられる。4個目5個目になると、よっぽど考えていないと答えられない。トヨタにいくとそういう議論になる。「これは本当に使えるのか」「メモりが大きくなるならいらないじゃないか」そういう議論の中で、次のアイデアがどんどん浮かんでくる。ドクターやマスター論文でもそういうことを徹底的に考えて、5回くらい「なぜ」「なぜ」を考えて人と議論すると、絶対に負けないから、参考にするといい。
やはりベンチャーをやる上でそういった議論する力は必要になる?
説得する力は必要になるね。ただし、議論して勝つのではなく、分かり合って、仲間にしていくこと。人を集めるときも、一緒にやっていこうよ、という風に盛り上げないと。たとえば、毎年やっているXVL Solution Worldというイベントがある。これはベンチャー企業のラティスの主催。ところが、名だたる大手企業が20社くらい皆協賛してくれる。私がプレゼンするときには大体600人か 700人くらい聞いてくれる。ユーザ各社からは、どのようにXVL製品を使って業務に効果が出たのかを発表する。去年はトヨタがグローバルなもの作りをする上でXVLがどう役に立つのかの話をしてくれた。また、三菱重工。XVLを使って設計と製造性の検証をしています、という話があって、次にJAXA。JAXAは去年「きぼう」という日本の実験棟を宇宙に打ち上げた。実は「きぼう」の形状は全部XVLになっていて、そのデータ管理もXVLでやっている。次は東芝メディカルと東京エレクトロン。いろいろな形で大企業ユーザが次々に話をしてくれる。そうすると、あのトヨタも、三菱も、JAXAも東芝もとなると、お客さんも、ラティスのXVL技術を「みんな使っているのか」と思う。「あそこの会社はこんなに成功しているぞ、なんでうちは使っていないんだ」 という形で、そこへの競合メーカーの重役がXVL導入を即断することもある。こういう力を利用して、ベンチャーは事業を拡大していく必要がある。
トヨタを呼んだら日産を呼ぶ、と。
トヨタが発表するとなると、自動車業界からは、日産とかホンダとかは呼ばなくてもたくさん来る。
写真を見ると、人がたくさん来るんですね。
危険を感じるくらい人が集中することもありますね。
かなり広い範囲で使われているんですね。
日本の主な製造業ではほぼ全部使ってると思ってよいでしょう。皆さんが良く知っているソニーもニコンもカシオも使っています。
世界に通用する物を

「代表取締役社長」とのことですが、このような役職になってもプログラムを書くのですか?
さすがに、それは若手の技術者に任せている。
それでもやはり昔のプログラミングの勉強は役に立つ?
話が分かるからね。開発している人の話が分かるし、お客さんの話も分かるからね。 プログラムをしたことがあるかないかの経験の差は大きい。
この会社ではどれくらいの人が働いているのですか?
社員は60人。協力会社を入れて70人か80人。
資本金の規模に比べると社員数は多いんですか?少ないんですか?
少ないでしょう。でも、社員が少ない方が、利益が出やすいから。
ソフトウェアという目に見えないものを売るのは難しい?
難しい。なかなか何の役に立つのか分からないから。ラティスも最初は技術ライセンスを売っていて、今はその上で製品を作って売っています。
技術ライセンスを売るというのはどういうことですか?
技術の核(Kernel)を作って、その核を売っていた。こうするとロイヤリティという形で、お金は入ってくるのだが、あまり規模が大きくならない。うちは市場創造形ベンチャーを目指した。要するに普通に大企業と競合しても勝てないから、市場を創造しようと。かっこいいでしょう、マーケットクリエイション。ところが、これは初めは売るものがないということ。3億を超える累損がたまっていく。何を作るか、どこに対してどのようなマーケットを作るかを考えないといけない。最初にあったアイデアは3Dが軽い、それだけ。それはどこで使い、誰が使い、誰がうれしいのか。誰がそれに対してお金を払うのか。これを明確にしないといけない。たとえば、最初はコンシューマー向けに販売使用とも考えた。しかし、「テキストとかイメージはタダで見られます。3Dを見るのに10円ください。」これは誰も払わない。
B2Cは全然お金が集まらないと聞いたことがあります。
次にやったのが、産業界で利用されている3Dをもっとカジュアルにしよう。今まではCADを使っている人しか3次元を扱っていない。調べてみたら、CADのマーケットは全IT産業の8%くらいだった。つまり残りの92%の人間は3Dを使っていない。チャンスじゃないか。しかし、8年前に、トヨタにいったら、「CADが一本500万位するとして、もし、3Dを1万人が欲しければ1万本買えばよいじゃないか、たった500億だろ。手軽にカジュアルに3次元を扱うマーケットはトヨタにはないから、他に行きなさい」、と言われた。そのとき、「Casual 3Dって良い言葉だな」と思ってラティスの登録商標にした。今まではCADで作ったデータを図面で受け渡ししていた。そうじゃなくてXVLにして3次元で全部やりましょうよ、と提案した。誰もが3次元をベースに仕事をしましょう、という絵を描いて、これをCasual 3Dと呼んだ。その根幹にXVLを置いた。XMLは知っている?
はい。
そりゃ知っているよね、これを知らなければ情報の学生じゃないよね。10年前くらいにXMLがISOの標準になった。この会社を作ったときにちょうどISOにXMLが出てきていて、私もアメリカに行って聞いてきて、これは必ず世界の標準になるな、と思って、それで我々の技術の名前をどうしようか,といったときに、我々も世界標準を目指すんだから、XMLと勘違いする名前を目指そうとおもった。でも皆同じことを考えるから、XAL, XBL, ...と検索していくともう皆ある。21番目がXVLで、XVLだけ一個もなかった。チャンスだ、ということでアメリカとヨーロッパと日本で登録商標にして、うちらはXVLだということにして、何の省略か皆に考えてもらった。
逆から行ったわけですね。
技術だけではなくて広める努力をたくさんしないといけない、と。説明していると勘違いした人が聞いてくることがある。「XVLってあの世界標準のXVLですよね」と。「もちろんです。」
商標登録から察するに最初から海外への進出を意識していたようですが、海外進出のためのノウハウは既に持っていた?
一回アメリカで失敗しているからね。リコーの商品を売りにいったとき。海外で一番大変だったのは、展示会にリコーのブースを出したとき。リコーの競合ベンチャーはまだ製品もないのに、リコーの10倍くらいのブースを構えて、人がガンガン集まっていた。日本人も舶来物が好きだから皆そちらに行ってしまう。どうやらそのベンチャーはベンチャーキャピタルが後ろについていたようで、何千万もかけてそんな大きさのブースを構えていたようだ。こういうダイナミックな動きに勝つにはベンチャーしかないな、と思った。もう一つ、リコーのときに売り込みにいった会社があって、そこがベンチャーだった。お金がなくて、オフィスもなくて、ホテルのロビーで会っていた。だけど、そこの人たちはとても優秀だということは聞いていて、必ずこのベンチャーは成功する。そこで、ストックオプションで払うと。で、リコーに帰ってきて、「ストックオプションで払うっていっているんですけど」と。それをうまく説明できなくて、「それは金になるのか?」といった状況だった。結局、これは競合にとられてしまった。その会社は結局買収されて、そのときの価格が数百億だった。もしそのときにリコーが投資するなりしていれば100億円になったかもしれない。

ちなみに、日本からソフトウェアの輸出は年間どれくらいか知っている?ゲームとかカラオケとか抜いて。
殆どなさそうですね。
100億くらいだそうだ。うちがそのうち2億位を占めているから、2%はうちがやっているということ。何万人もの社員を抱えている富士通とか日立とかNECとか大企業にはもっともっと頑張ってもらわないと。
国産のソフトウェアというのはあまり見ませんね。
ほんとないんだね。くやしくない?
くやしいですね。
皆さんのような賢い人は、高い価値を創り出していかないと。日本は、いずれ中国やインドに負けてしまう。

そのためにも、若いうちに海外に行った方が良い。英語は毎日2時間くらい聞いた方が良い。私が最初に海外に行って、McDonald'sで店員の女性が何か言ったんだが、なんと言っているか分からない。10回くらい聞いて Here or go?と言っていることが分かった。「お持ち帰りですか?」これが聞き取れなかった。英語の先生みたいにゆっくり発音はしない。 Technical Discussionならまだなんとかなるけれど、こういう状況だと難しい。
海外経験はリコー時代が最初だったのですか?
卒論を書いて、卒論が学会に通って、アメリカで発表になってしまった。一人でのこのこ行って、これが一番勉強になった。一人で住所だけもって、ここで発表してきてと言われて。
がんばりたいですね。
一人で行った方が良い。アメリカに行ってアメリカの国内便に乗り換えたとたん一人だから。若いうちはいくらでも失敗できるからね。相当ヒアリングは鍛えないとなにを言ってるかさっぱり分からない。 技術で世界一になったらその技術を広めてくれるパートナーを世界に探さないといけない。

日本のIT業界をもっと元気にしたい。だから情報科学科の賢い学生が是非新しいブレイクスルーを、新しい技術を考えて、世界に通用する物を作ってほしい。そういう気概のある人がいたら、是非、一緒に仕事をしましょう。
インタビューを終えて
インタビュー中の鳥谷さんの発言から、いつも何かを良くしようとか、外国勢に負けると悔しいなどの熱い思いを感じました。私は実際に起業された社長さんにお会いしたのは初めてで、こんなに力強い人もいるんだと実感させられました。自分も負けないようにがんばりたいです。